・神の子どもたちはみな踊る
・総評
「地震のあとで」というタイトルで連載された、阪神大震災をテーマにした短編6作。
地震をテーマといっても、深刻さや重さが漂うテーマ設定ではなく、
日常生活における人間の感情レベルでの地震に対するスタンスを捉えている。
むしろ地震をテーマにしているというより、短編の話に地震を絡めただけという感じ。
こういったアプローチはある意味では非常に斬新かもしれない。
・UFOが釧路に降りる
突如、離婚を宣告された夫。妻はずっと地震報道に釘づけになっていた。
それがあたかも離婚の原因かのように。
地震は、それがたとえメディアを通していたとしても、現代人の価値観を大きく揺さぶった事件だった。
「空気のかたまり」「中身がない」と言われて置いて行かれた夫は、突如の離婚に精神的ダメージを受ける。
その傷を癒すために出掛けた北海道で、一人の女性と出会う。
「思うんだけど、今の小村さんに必要なのは、気分をさっぱり切り替えて、もっと素直に人生を楽しむことよ」
この女性のセリフは、地震で崩壊した都市の風景と、結婚生活の崩壊が重なる小村に、
そして今の日本人に対する一つのメッセージではないだろうか。
・アイロンのある風景
海辺で焚き火をする謎の男。神戸に別れた家族を置いてきた。
地震が起きて動揺はしているが、連絡はとらない。
ふと人生の空しさみたいなものが一挙に押し寄せてくる。
「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える」
焚き火をするためにここにいるという男。
そして漠然とだが人生に虚しさを感じている女性と焚き火フレンドになる。
「私ってからっぽなんだよ」
「どうしたらいいの?」
「そやなあ…、どや。今から俺と一緒に死ぬか?」
「いいよ。死んでも」
−現代人の心に常にまとわりついている虚しさが、大地震を契機に決定的になったことを物語っている。
・神の子どもたちはみな踊る
地震とはほとんど関係ない話だが、現代的な宗教をテーマにした短編。
不遇に生まれた子供を女手一つで育ててこられたのは「宗教」との出会いがあったから。
「母は教団でいちばん布教の成績がよかった」という一文などは現代宗教を端的に表している。
そんな宗教でも母を救っていることには間違いなかった。
母の生き方は宗教を選び、息子は信仰を捨てた。それは当然といえば当然だった。
人それぞれに宗教という方便が意味をなす場合となさない場合とがあるからだ。
そんな息子が出生の秘密を探って、しかしその手掛かりが消えてしまった時、自分のその行為の意味を知る。
暗闇を追いまわしてさらに深い闇に落ち込んだのだと。
これ以上ない闇までおちたとき、はじめて彼の目の前に晴れ渡った心が広がった。
人間の心は石ではないと。
「神が人を試せるのなら、どうして人が神を試してはいけないのだろうか?」
誰もいない野球場で「神様」とつぶやくラストシーンが、物語の奥行きを感じる。
・タイランド
村上春樹の小説で海外が舞台になっているのをはじめて読んだ気がした。しかもヨーロッパではなくアジア。
タイに行っている間に神戸の地震を聞いたさつきは、
別れた夫が神戸に住んでいるので地震に対してこう感想を吐露している。
「あの男が重くて固い何かの下敷きになって、ぺしゃんこにつぶれていればいいのに。
それこそが私が長いあいだ望んできたことなのだ」
地震によって最愛の人を無くした悲しさばかりが取り上げられる中で、
中にはこう思っている人もいるのだという話を書いたのはおもしろい。
しかし、さつきの憎しみからは何も生まれないことを知った、
タイでの車のドライバーが小さな村の占い師のところに連れて行く。
「あなたの身体の中には石が入っている」
長い間、胸に抱えて生きてきた重く堅い石。
それを捨てて新たなに生きなければ、死んで焼かれた時に石だけが残る。
「生きることと死ぬこととは等価なことなのです」
生き方と死に方。過去の囚われ人。
人の生き方を示唆する、タイという仕掛けをうまく利用した小説。
・かえるくん、東京を救う
東京に地震が起きるという情報をもとに、かえるくんと銀行員がともにみみずくんと戦うという話。
ともに戦う当日に銀行員が銃で撃たれて重体になるという話の意外な展開はおもしろかった。
かえるくんの命を犠牲にした戦いによって東京は地震を防ぐのだが、
カタストロフィー願望のある僕もしくは多くの今の日本人にとっては、
東京が救われたという話より、地震が起こってしまったという話の方がよかったのではないかと思える。
・蜂蜜パイ
村上春樹の典型的小説。物書きの主人公は、仕事は着実にこなすが、派手さはなく、
特定の女性を見つけることができず、毎日の生活を過ごしている。
そこに学生時代の三角関係の話が登場し、今やっと自分の意志を表明することができ結ばれる。
よくこの手の小説を書いている。まるで自分の姿のありのままかのように。
子供へのお話という仕掛けを作って、そこに現実の人生と重ね合わせていく物語はおもしろい。
地震については全く関係の無い話。
(地震おじさんなんてものが出てくるが、この話には無用と思われる)
・国境の南、太陽の西
「かさこさんって結構、村上春樹を読んでいるんですね」と書評コーナーを見てくれた人が言っていた。
僕の中で村上春樹の作品は、『ノルウェイの森』と『回転木馬のデッドヒート』以外は特におもしろくなかったという印象がある。
にもかかわらず、確かにおもしろくないと言いつつ、結構読んでいるということに我ながら驚いた。
とはいうものの、期待していた『ダンス・ダンス・ダンス』があまりおもしろくなく、それを境に村上春樹を大分離れていた。
しかし先日の土曜日、図書館に行って本を選んでいる時、無性に村上春樹が読みたくなった。
そこで借りてきたのが、この『国境の南、太陽の西』という作品だった。
僕はタイトルから、村上春樹の書いた紀行文だと思ってずっと避けていた。一度『遠い太鼓』という村上春樹の紀行文を読み、失敗していたからだ。
しかし手にとって中身を見てみると、紀行文ではなく小説だった。そんなに長くもなかったので、久しぶりに読んでみるかと借りてきた。
「ノルウェイの森」の再来かと思ったぐらい、先を読みたいとどんどん読み進んでいった。
主人公「僕」が恋した3人の女性との話だが、それが実におもしろかった。
小学校の恋話、大学生の恋話、そして結婚。結婚後の絵に描いたような幸せな生活。再会した初恋の人への激しい想い。
一度は妻を捨て子供を捨て、すべてを捨てようとするが、消えてしまう女性。
そして時を経て今までの生活に戻っていくという、至って普通の話だが、実に現代を的確に描いているなと共感する部分が多かった。
現代の人の心に潜んでいる、欠落感であるとか空虚感であるとか、踊らされているという感覚であるとかが、よく描かれている。
「最後に残るのは砂漠だけなんだ」という挿話も、砂漠に惹かれ、旅を続ける僕にとってはよくわかる話だ。
ダンス・ダンス・ダンス−現代という社会の中で我々は、虚しいけれど踊らされて生きていくしかないんだという、
言ってみれば明治時代の文豪、夏目漱石の説いた「皮相上滑りの開花」の現代版が、この『国境の南、太陽の西』の作品である。
久しぶりに名作品を読んだ。
それと同時に、この作品に描かれる人間の弱さとか理不尽さとかがわかるような年に、
自分がなってしまったのだなということも感慨がひとしおであった。
・辺境・近境
村上春樹の本は基本的に結構好きだが、旅ものというか紀行ものには痛い思い出がある。
「遠い太鼓」というギリシア・イタリアの話は偉く退屈し、くそつまらなかったので、
この紀行本「辺境・近境」を読むのは避けていた。
しかし読んでみたところ、この本はなかなかおもしろかった。
特に印象的だったのが「ノモンハンの鉄場」。
ノモンハン事変の起きた現場へと、中国側・モンゴル側の国境を草の海を延々駆け抜け、その舞台に立つ。
当時の戦争の現場がそのまま残された世界でも珍しい場所だ。
こんなところに観光に来る人はもちろんいない。
鉄の墓場を目のあたりにした著者が、その光景に心を大きく揺さぶられる気持ちはよくわかる。
こんな、なにもない、ただ虫がうじゃうじゃといるどうしようもない荒地を巡って、
たくさんの命を犠牲にして争ったその戦争の残骸が、草原にとり残されているその光景は、
きっとそれはすさまじいものなのだろう。
人を震撼させるほどの光景が、ほんの数十年前、日本がかかわった場所にあるのだ。
そこはまさしくこの世の「辺境」の地といえる。
讃岐うどん紀行もなかなかだった。
ただおいしい地元の讃岐うどん屋を紹介するだけでなく、かなり変わった店も紹介していた。
たんぼの真ん中にあって、看板もなにもない、
店というより家に入って勝手に自分で置いてあるうどんをゆでて食べるという店があるそうだ。
「辺境を旅する」という談話記事でこう述べている。
「アメリカ大陸を車で横断するのと、四国で1日3食、3日間ただうどんを食べ続けるのと、
いったいどっちが辺境なのかちょっとわからなくなってくるところがある」
まさしく讃岐うどん紀行の方が「辺境」なのだ。
「秘境」がテレビや本であちこち紹介されるぐらい、今の時代には物理的な辺境地などありえなくなっている。
じゃあもうこの世に秘境はなくなったかといえばそうではない。
自分の心に「旅」する気持ちがあれば、
日本だって辺境を感じられるような場所があるということを、この本は示してくれている。
「心の中に辺境を作り出せること」
それができるかどうかが、インターネット席巻時代における、心の豊かさなのかもしれない。
海辺のカフカ
大いに話題になった作品で、 よっぽどもハードカバーの上下巻を購入して読もうかと思ったが、
この手の本は一度読んでしまえば、まず読み返すことは少なく、
またハードカバーは重いし邪魔になるし、 出版社の儲け戦略にはまるのは嫌だし、
もしかしたら買うほどの本ではない可能性もあるし、
じっと図書館で機会をうかがっていてやっと借りることができ読んだ。
結論からいうと、話題になったわりに、僕の中でのインパクトは非常に少なかった。
「主人公が15歳」であることをマスコミが話題にしていたが、それほどのことはない。
15歳の少年が家出をするわけだが、現実の15歳とは思えないほどしっかりしすぎていて、
結局「15歳」という設定でありながら、
これまで村上作品に出てくるような村上春樹自身を投影したかのような主人公像と、
あまり変わりがないような気がする。
テーマとしても僕には正直ぴんと来なかったな。
ま、村上作品のスマッシュヒット程度のものとしては、 そこそこおもしろかったかなといった程度で、
それこそ「ノルウェーの森」のような圧倒的なインパクトを持った、 テーマ性の奥深さを感じることはなかった。
もちろんここに描かれていることから「深読み」すれば、
現代社会に通ずるテーマをあぶりだすことはできるんだろうけど、
読んでいて自然と考えさせられるというには程遠い。
村上作品を全部読んでいるわけではないので、正確なことはわからないが、
この作品でこれまでにない新鮮だった登場人物は、
15歳の主人公ではなく、「ナカタさん」という知的障害を持った人と、 「ホシノくん」というトラック運転手だ。
ホシノくんには時折、村上春樹の典型的な主人公パターン的キャラクターが見受けられるが、
それでもとても親しみが持て、気楽さを兼ね備えていながら、
直感的に優れていて、偏見なく物事を見れる素直なキャラクターで、とても魅力的だったし、
ナカタさんという非常に特異なキャラクターが、 今回のこの作品の一番のキーポイントといえるぐらい、
実に新鮮で風変わりでおもしろく読ませられた人物だった。
未成年犯罪が増える日本の時代状況の中での「15歳の主人公」という、
わかりやすいマスコミ的話題作りのわりに、 この作品における「15歳」という意味性は薄く、
むしろ「ナカタさん」や「ホシノくん」を主人公にして描いた方が、
おもしろい作品を描けたのではなかったかと読んで思った。
物語の構成としては15歳の少年の話と「ナカタさん」の話とが交互に織り成し、
最後にドッキングするという「世界の終わりのハードボイルドワンダーランド」で見られたような、
一見関係のない話が交互に進むという手法を使っているのだが、 これもちょっとどうなのかなと思う。
特にはじめ、ナカタさんの話はまったく意味不明な関係性のない物語として何章か読まされることになる。
だからはじめは退屈になってしまうのだが、
だんだん2つの話につながりが見え始めてくる、上巻の終わりから下巻のはじめは、
15歳の少年の話とナカタさんの話とが実におもしろく、パラレルに読めるんだけど、
明らかに話が結びついたのが見えてしまう下巻の中頃から終わりまでは、 逆にまたつまらなく思えてしまう。
こういう手法を使うと、つかずはなれずでパラレルに2つの話がダイナミックに展開する真ん中はおもしろいけど、
完全に違う方向を向いてしまっているはじめと完全に同一になってしまう終わりの部分は、
非常に退屈でつまらない結果となる。
本を読む上で、はじまり部分とラスト部分がつまらないとなると、これは結構致命的である。
このような手法ではなくてこの物語を書けなかったのかと思わざるを得ない。
ま、総評すれば、村上作品が好きな人にとっては、 そこそこ楽しめるスマッシュヒット的作品だが、
誰もが読んで深く考えさせられる良書的ベストセラーという意味では程遠い気がして、
「海辺のカフカ」はマスコミが煽った話題性先行型の典型的な作品だなと思った。
・アフターダーク
評価:偏差値50
ハードカバーにとびついて買う必要はまったくなし。
完成度の低い作品だった。
私は村上春樹ファンではないが、村上春樹の本は結構好きだ。
「海辺のカフカ」以来の久々の新作とあって楽しみに読んだのであって、
批評するために読んでいるのではないということを断っておかないと、
なんせ春樹ファンというのは多いから、批評を書いただけで文句を言われそうなので、
あらかじめ断っておく。
この作品を読んで思ったこと。
村上春樹は現代についていけないのかな。
10年前ぐらいで頭がストップしてるんじゃないかな。
10年前にこの本を出せば、意義が見出せるが、
今、この本を出しても、ステレオタイプ化された従来の典型的現代社会を描いているだけで、
本当の現代社会を映す鏡になりえていない。
その証拠として文頭と文末に書かれた本文の記述を紹介しよう。
私たちは「デニーズ」の店内にいる。
面白みはないけれど必要十分な照明、無表情なインテリアと食器、
経営工学のスペシャリストたちによって細部まで緻密に計算されたフロアプラン、
小さな音で流れる無害なバック・グラウンド・ミュージック、
正確にマニュアルどおりに対応をするように訓練された店員たち。
「ようこそデニーズにいらっしゃいました」。
店はどこをとっても、交換可能な匿名的事物によって成立している。店は満席に近い状態だ。
目にしているのは、目覚めつつある巨大な都市の情景だ。
様々な色に塗られた通勤列車が思い思いの方向に動き、
多くの人々をひとつの場所からべつの場所へと運んでいる。
運ばれた彼らは、一人一人違った顔と精神を持つ人間であるのと同時に、集合体の名もなき部分だ。
ひとつの総体であるのと同時に、ただの部品だ。
彼らはそのようなニ犠牲を巧妙に、便宜的に使い分けながら、的確に朝の儀式をこなしていく。
歯を磨き、髭を剃り、ネクタイを選び、口紅をつける。
テレビのニュースをチェックし、家族と言葉を交わし、食事をし、排便をする。
はっきりいってこんなの社会人なりたての組織の歯車にからみとられた新入社員の作文か、
はたまた社会に出たことないけど、ニュースばかり見て頭でっかちになっている大学生の作文だ。
私もこのようなステレオタイプ化した現代社会批評を書いてはいたが、
今はもう、そういう時代を通り越して、もっとすごいことになっていると思う。
所詮、村上春樹という人はバブル前後の激動の時代、
価値観が変遷していった日本の現代社会を映し出した作家に今でもとどまっていて、
バブル後、さらに社会が複雑な様相を呈してきて、
しかも右肩上がりの経済は終わり、慢性的な不景気時代に突入し、
従来の価値観が見直されはじめたり、非常に冷めているけどしっかり人生設計をしはじめた若者の登場とか、
そういう今の時代背景をまったく表せていない。
だからこそ前作「海辺のカフカ」では、15歳を主人公にすることによって、
なんとか時代に追いつこうと試みたのであろうが、所詮は単なる小説上の設定にしただけであって、
本当の意味での15歳の主人公像としては若干外れていた結果になったのだと思う。
今回もそういったトリックがある。時間軸を設定している点だ。
はじめが夜23時55分で終わりが朝6時52分。
都会の夜中という設定を時計の針の絵まで出して強調するあたり、
そういうトリックを使わないことには「今」が描けなくなったのではないか。
村上春樹が今、ロシアなど経済的「後進国」で流行っているのはそのためだろう。
村上春樹は一時代前の社会を現す作家なのだ。
主要登場人物であるマリと高橋は、相変わらず村上春樹作品の典型的キャラクター。
ちょっとすかしてて、能力はあるけどうまく社会になじめなくって、
でもそんなにアウトローではなくって、でも変な知識はあって、
何事に対しても一歩踏み込むこともできないし、かといって完全に逃げるわけでもない。
確かにこのようなキャラクターが今の社会に多いかもしれないけど、
もうそういうのはちょっと「飽きた」感がある。
はっきりいってみんなそれを自覚していて、もっと賢くもっと無様にもがいている。
一時代前はもがかなかったけど、今の時代の人たちの多くは、もがいている。
それを描かずに、すかしたキャラクターを相変わらず使うのははっきりいって時代錯誤の感がある。
キャラクター設定も非常にあいまいだな。
ひどいのはコオロギという人物で、関西弁なんだけどめちゃくちゃだし、
女性なんだけど文章を読んでいると男性キャラにしか思えない。
今までの作品は自分の分身を主人公にすえていたが、
今回のように自分の分身を、マリとか高橋とか白川とかに分散させてしまっているので、
なんかこうそれが気になると変な物語になる。
1人1人がキャラとして成り立っていない。
この作品がたいしたことないというのは、こういう場合を想定してもらえばわかると思う。
もし、この作品を「村上春樹著」ということをふせたら、
これを読んでおもしろいという人がいるかどうか、
またはこの作品原稿をどこかの出版社が出版するかどうか。
多分、答えはノーだろう。
「神の子どもたちはみな踊る」とか「ノルウェイの森」とか「国境の南、太陽の西」とか、
ああいう本は別に村上春樹が書いただろうがなんだろうが、おもしろいし売れるとは思う。
でも今回の作品は違う。
「村上春樹著」だから売れるのであって、作品そのものはたいしたことない。
書き下ろし「長編」小説というが、ハードカバーでどでかい文字で、
300ページに満たない長編とはいいがたい短い小説なのだが、
何か起こりそうで結局何も起こらない、
でも別に何も起こらないことでいろいろと考えさせられる本でもない。
まあテーマはわからんでもない。
現代人の心の病みたいなものを都市生活者のさまざまな人物を出して表し、
現代社会を問うというようなことがテーマなんだろうけど、それにしては随分稚拙なデキだなと思う。
私は村上春樹は結構好きな作家の部類である。
もう本を出さなくても生きていくのに困らない金はあるのだろうから、
こんな稚拙な本を量産するより、じっくり腰をすえて、
しっかりとした作品を作り込んでほしいなと願う。
・レキシントンの幽霊
とにかく軽いものを読みたい。
現代の消費文化を象徴するような、使い捨て小説みたいなものを。その場、その時限りで暇をつぶせて楽しめればいい。
そんな本は何だろうかと考えて、思いついたのが村上春樹の短篇集だった。
短編集『回転木馬のデットヒ−ト』がおもしろかったので、そのイメ−ジで読んでいったが、
『レキシントンの幽霊』は、残念ながら全体的にはあまりおもしろくなかった。
7つある短編の中で、おもしろかったのが2つ。
「沈黙」と「七番目の男」は非常に良かった。
濡れ衣を着せられ犯人扱いされ、学校の友人や先生から完全に無視されたという「沈黙」。
海岸で大波が押し寄せてきたとき、友達を置き去りにして自分だけ逃げて助かってしまったという「七番目の男」。
短い話の中で、人間の愚かしさとか弱さとかを端的に語っている。
しかもそれは、誰もが何かのきっかけで、そういう立場に追い込まれるかもしれないという暗示が漂い、
読んだ後にはっと身を固くする。もし自分がこの立場に追い込まれたら、どうするんだろうかと考えずにはいられない。
日常生活の落し穴は、誰もが不意にはまりこんでしまう可能性がある。
落ちた穴から出るにはどうしたらいいか?
どちらの話にも共通することだが、逃げてはいけないということだ。
真正面からそれを受け入れることからはじめなくては、いつまでたっても苦しみから逃れられず、問題の解決にはならない。
2つの話は軽いタッチで書かれているにもかかわらず、「深いな」と考えさせられる短篇で印象的だった。
あとの5つは、エピソ−ドが特異過ぎるものや、その話が結局何だったのか、いまいち焦点がはっきりしない、ぼやけたものだった。
まあいろんな文章を書いている中で、7つの中で2つおもしろい話があればいい方なのかな。
世界の終わりとハードボイルドワンダーランド
とりたててすごくおもしろいというわけではないが、
なかなかよかったなというのが感想。
村上春樹作品によく出てくる自分そのものを投影したような主人公の日常世界だけでなく、
そこから逸脱した非日常世界、空想世界の物語は「悪くない」。
これが何かすっごく深いテーマってわけではないだろうけど、
今の時代の倦怠感というかしらけ感というか醒めた感というか、
そういったものはうまく表現しているのではないかなと思う。
はっきりいってはじめは意味不明で読むのをやめてしまおうかと思う節もあるが、
だんだんおもしろくなってきて、
文庫本でいうと上の後半から下の前半あたりはおもしろいが、
また下の後半になって飽きてくる。
ま、とりたてておすすめできる本ではないが、ま、そこそこ楽しめる作品ではあるかもしれない。
せっかくおもしろおかしい非日常世界を作り上げたのだから、
僕はその世界の話だけでも十分おもしろかったと思うし、
また日常世界でのごたごた話も、変に非日常世界と結びつけずに、
それはそれで日常世界のおもしろ物語として貫徹させれば、おもしろかっただろうし、
別に2つの話をくっつける必要はなかったのではないかという気がしないでもないが。
ま、村上春樹らしい作品ではある。
ねじまき鳥クロニクル
残念ながらおもしろいともなんとも思えなかった。
特に後半がだるい。
やみ鍋の出来損ないみたいな本だ。
いろいろなイシューを無理やり1つの本にぶっこんで、
それでどうだみたいな、いやらしさがある。
3冊ある、長編。
結末はしっかりあるが非常に情けない。
もっと内面的な現代人の葛藤みたいなところにいくのかと思いきや、
結局、綿谷ノボルという一人の悪役をつくって、
そこに全部おっかぶせて物事を片付けただけ。
もちろん著者はそのつもりではないんだろうけど、
結局そういうことじゃんってことになってしまう書き方をしており、
それだとなんの意味もない。
主人公は相変わらずいつものキャラクター。
変なことにこだわりを持っていって、でもわりにドライでクールで、
ちょっと不器用だけど女にもてるみたいな、
そんなキャラクターだ。
なんかもうそういうのは時代錯誤だし飽きたかな。
たとえば「ノルウェーの森」とか、時代が変わっても読める本もあるけど、
この本は多分、一時代のほんの一時期でしか読まれない本なんだろうな。
随分前に出た本だから、今の時代に読むと、すごく違和感がある。
人の描き方がね。
それともうこういう単純な書き方はやめてほしいなと思う。
「駅は大きく長く、人間の数が多すぎた。
そのうちに電車がやってきてドアが開き、
名もなき人々を外に吐きだし、別の名もなき人々をのみこんでいった。」
すごい単純な現代社会批判というか今の社会の無機質性みたいなものを描いているんだけど、
こういう書き方は今の時代、合わないなと思う。
通勤ラッシュは確かに異様な光景だけど、
そこにいる無数の人々は「名もなき」人々なんかではなく、
みんな名前があり生活があり仕事があり、それに満足しているかはともかく、
一様に見える金太郎飴的人々にはすべて十人十色の文様がある。
そういうものを見過ぎして一掴みに「名もなき人々」といってしまう奢りというか、
きちんと社会を見ていない視点のなさみたいな、こういう書き方が随所に出ていて、
もうそういうのは古いんだよな。
「僕にとってそれらのニュースはすごくリアルであり、また同時にぜんぜんリアルではなかった。
僕は事故で死んだその三十七歳のトラックの運転手に同情した。
(一文略)
でも僕はその運転手を個人的には知らなかったし、その運転手も個人的に僕を知らなかった。」
こういうのもありきたりというか「古い」よな。
別にそんなことは誰だってわかってる。
ニュースが確かにショー化している部分もあるかもしれない。
だけどそれを「リアル」とか「リアルじゃない」とかいった尺度で片付ける傲慢さ。
確かに個人的に知らない人の死をテレビ画面で見れば、
誰だって「リアルじゃない」かもしれない。
しかし、そういうニュースが自分の身にふりかかってくるかもしれないし、
その事故によってさまざまな現実的な影響(たとえば道路がそのため一車線になって渋滞しているとか、
事故の原因が携帯電話でより一層、運転中の携帯電話使用の取締りが強化されるとか)
があるかもしれない。だからニュースとして放送され、
村上春樹あんたが知らない人の事故だろうが、
「バカな」大衆(この前段でニュースを見ている大衆批判記述をしている)が知らない人だろうが、
それはそれぞれの生活レベルにおいてより具体的にリアルな影響を及ぼしうる可能性があるわけだ。
別に私はこういうこと細かい箇所を取り上げてそこだけを批判しているのではなく、
この手の視線、この手のスタンスで、この物語全編書かれているから、
非常に違和感を感じ続けてしまうわけだ。
こういう書き方で人を感動させるのは難しいだろう。
騙せても中学生までだ。
それこそもっと現代社会に根ざした「リアル」な物語を、書いてほしかったな。
この作品は著者が批判する「ニュース番組」以下の作品だ。