・藤原悪魔
1998年、正月。あまりに退屈で気が狂いそうなので書店に行ってみると、
新刊コーナーにひときわ目を引く本があった。
真っ黒なカバーにでかでかとおどる「藤原悪魔」という不吉なタイトル。
それを嘲笑するかのような、太いまゆげをつけたおまぬけな犬の写真。
一体これはいかなる本なのだろうか?
表紙のインパクトはどの本にも負けなかった。
この本の作者が、僕が大好きな藤原新也であったことに驚いた。
本書は雑誌で連載されたエッセイの寄せ集め集。
大きく3種類に分けられる。
一つは、O−157や猿岩石、麻原彰晃や酒鬼薔薇聖斗事件、
「悪魔」と子供の名前につけようとして問題になった事件など、
当時の時事問題を取り上げ、独特な藤原社会学的見地から斬ったもの。
一つは、「2000年藤原現在シリーズ」と題された、2000年に毎月本を出版した写真集や本の取材時の話。
(バリ島や富士山、鉄輪など)
そしてもう一つは、猫の写真とエッセイである。
暗くなりがちな時事問題のエッセイだけでなく、取材した話や猫の写真と話を交えるあたり、
東京漂流以降に見られる藤原新也のバランス感覚を感じる。
殺伐とした現代社会に、写真家としての彼が、できる限りポジティブなものを見出そうとした結果が、
猫のかわいらしい写真群であり、表紙にもなっている「マユゲ犬」ではなかろうか。
いろいろな話題を緩急織り交ぜた、読み楽しいエッセイ集だ。
僕が個人的にこの本で強く影響を受けたエッセイが2つある。
一つは「山手線一周手相マラソン」。
タイトルのごとく、山手線の各駅で手相見にみてもらうと一体どんな結果が出るかという、
くだらななすぎて実におもしろい企画である。
これに影響され、僕ははじめて街角の占い師に占ってもらうことになる。
(これが実によくあたっていた)
そしてもう一つが「エンパイヤステートビル八十六階の老女」の序文のこの文章である。
半年も旅をすればひょっとすると自分の人生すら変わるかもしれないわけだが、
このような人生にかかわる行事が、ただバイトを探すのが難しいといった理由だけで、
キャンセルされるというのはさみしい。
これを読んだ3日後、僕は会社を辞めて旅に出る計画を練り始めた。
人生は一度しかない。いつどんな形で不意に死が訪れるかもわからない。
現代社会は、一寸先は闇である。
ならば悔いのない人生を送りたい。やりたいことがあるならやったほうがいい。
やらずに後悔するぐらいなら、やって後悔した方がいい。
そんな思いを後押ししてくれた言葉だった。
藤原新也さん、ありがとう。
僕はこの箇所を何度となく読み、僕は自分の旅への決断を揺るぎないものにしていった。
この藤原悪魔は、僕にとって、旅へと誘う悪魔的なささやきの大切な書となった。
・印度動物記
「老人になったら、南の島に庵を構えて、動物の絵を描いたり、動物の物語を書いたりして暮らしたいな。
しかし早くもその動物記は描かれた。連載にたずさわりながら私はいつも少し迷っていた。
こういう仕事は、老後の遊びとしてとっておくべきじゃなかったか。
その思いの裏には歳も十分にとらないうちから、時代と向き合うことをやめてもよいのかという自分への詰問があった。」
『印度動物記』あとがきより
このあとがきに、僕は同じ物を書くことを職業とするものとして、大いに共感し、そして勇気づけられた。
書くことによって金を稼ぐという商売をしている以上、読者が求めているものを書かなくてはならない。
しかし読者や出版社の意向に迎合し、ただ旅行のおもしろ話だけを書いているだけでは、自分自身の仕事に対するプライドが持ちえない。
おもしろ話や観光案内のような文ばかりを書くことで、時代と向き合うことをやめてはいけないと思った。
自分が書くことによって、時代や社会が少しでも良い方向に向かってくれればこの上ない幸せである。
確かにエンタ−テイメント(娯楽)としての本は必要なのかもしれないが、
ただ消費されて心には何も残らないような、うすっぺらな書を書いていくつもりは僕にはない。
常に時代と向き合ったメッセ−ジを伝えていきたい。
苦言や批評は読者には時に耳障りなこともあるかもしれない。
でも私たちは時代や社会から逃げてはいけないのだ。いや逃げられない。
悪しき時代や悪しき社会を生んでいるのは、常に自分自身の責任でもあるということを肝に銘じておかなくてはならないと思う。
藤原新也の「時代と向き合うことをやめてもよいのか」というあとがきに、僕は大いに触発られたのだ。
藤原氏は、単なる老後の遊びで時代と向き合わない作品にしないために、『印度動物記』単行本化に伴って「ノア」という中編を書き加えた。
舞台は印度で、一瞬旅行記的な話だが、実はそこにフィクション的要素を加え、藤原流の奇抜なトリックを仕掛け、
それを見事に単なる娯楽としての旅行話ではなく、現代社会へ通づるメッセ−ジにまで昇華させた。
あくまで体裁は旅行記だが、そこに描きだされる話の構造は、まさしく今という時代と向き合った作品に仕上がっているのだ。
僕もノアのような作品が書きたい。
そう思い、はじめの筆写(本の書き写し)の対象課題としてこの印度動物記を選んだ。
300ページに及ぶこの本を、ちょうどつい最近、全部書き写し終えた。
「ノア」だけに限らず、この印度動物記の他のエッセイも、ユーモアとアイロニーの効いた実におもしろい奥深い作品に仕上がっている。
藤原新也の代表作といえば「東京漂流」か「印度放浪」かもしれないが、僕はこの「印度動物記」を何よりおすすめする。
・アメリカン・ルーレット
去年、会社を辞めて4ヵ月間旅行に行っていたので、今はほとんど金がない僕。
本代の節約のため、極力本は買わず、図書館で借りるようにしている。
そんな僕が一度図書館で読んだことがある本を、3900円もの大金を出して最近買った本がある。
それは、藤原新也の『アメリカン・ルーレット』(情報センター出版局)という本だ。
(相当でかい本屋に行かないと置いていない)
この本は基本的にはアメリカの写真集であるが、写真に短い解説文が付け加えられている。
旅行記を書くものにとって、多分最も表現しにくい国の一つがアメリカではないか。
アジアに行けば日本の常識とはかけ離れたおもしろいことにいくらでも出くわすし、人も土地もおもしろいから、
写真や文章を書くのは比較的楽である。
藤原新也がかつての著書で、
「インドなんかに行けば、そのまま360度カメラを撮ればそれで一つのフォトストーリーができあがってしまう」
というほど、あちこちにおもしろいことが満ち溢れている。
ヨーロッパなら歴史的建造物や遺跡がいくらでもあるし、イスラム圏なら文化が違う。
アフリカなら大自然があるし、アジアは混沌に満ちている。
ではアメリカを旅行して、写真を中心に旅行記を作るとなったら相当に難しいことだ。
アメリカの景色はそのほとんどが現代の景色だ。
広大な大地はあるが、何もない。歴史もない。
このアメリカという国を写真で表現しておもしろいものを作るというのは相当に困難なはずだ。
ところが藤原新也はそれをあっけなくやってのける。
このアメリカの写真群を見ていると、背筋がゾッとしてくる。
『アメリカ』といういわば現代社会、現代資本主義を象徴する国を取り上げることによって、
その写真群を見ていると、現代社会の根の深い問題の数々が身に迫ってくる。
アメリカに追いつけ追い越せとばかりにやってきた戦後の日本にとって、その理想としてきたアメリカの現実を見せつけられる。
恐ろしく美しい新興住宅街の風景。都会に潜む一瞬の落とし穴。表層的な社会。人々の表情に映るそこはかとない空虚感・・・。
アメリカの日常的な写真群をルーレットのようにぺらぺらと本をめくって見ていくと、非常に危機感を感じるのである。
「やっぱり我々の歩んできた道は、我々の目指しているものは間違っているのではないか?
なにか取り返しのつかない方向に進んできてしまったのではないか?」
失ってきたものの大きさを思い知らされる。
インドやアジアを放浪し旅行記を書いてきた藤原新也の辿りついた最終地点が「アメリカ」であるというのは実に現代を象徴している。
3900円も出して買った甲斐はある。
そして最後に数ページ書かれている、自分で自分をインタビューするという「自問自答」という形式も凝っていて実におもしろい。
藤原新也作品の中でも、僕が読んだ本の中でもピカ一のものである。
・アメリカ
世界をクレイジーな状況におとしめている「アメリカ」とは一体なんなのか。
政治的軍事的経済的なマクロな視点ではなく、
アメリカ人の文化というか意識そのものに迫った良書が、
この藤原新也の「アメリカ」だ。(集英社文庫)
文庫本の初版は今から約10年も前になる1995年。
このアメリカの写真集「アメリカンルーレット」の初版が1990年で、
文章中の記述に「ブッシュ」大統領が在任していると思われる記述から考えても、
彼がアメリカに行ったのは、今から15年以上も前のことになる。
にもかかわらず、今、読んでもアメリカ人の「謎」の奇習を理解する上で、
これ以上の良書を知らない。
僕はもう何年も前にこの「アメリカ」を読んだがあまりおもしろいとは思わなかった。
彼が題材にしているアジアの躍動感やおもしろみがまったくないからだ。
それは著者の問題ではなく、題材の問題にあり、
アメリカの旅を題材にすれば、そこにアジア的躍動感が生まれようもない。
読んだ当時はまったくアメリカに興味はなかったし、
アメリカなど旅する選択肢になかったので、
藤原新也ならではの素晴らしい洞察力に基づいた文章には感嘆したが、
それほど興味をそそられるものではなかった。
そんな僕だったが、望む望まないに関係なく、
昨年からアメリカを4度訪れた。
ラスベガス2回、シアトル1回、そして今年のサンフランシスコ。
そこで目の当たりにする「アメリカ人の不思議」を体感するにあたり、
自分なりの認識は深めたつもりだが、やはりどうにも理解しがたい点が多く、
帰りの飛行機の中でこの本を読んだら、「なるほどそういう考え方もあるよな」と、
大いに参考になった。
もちろん「これはちょっと言い過ぎじゃないかな」と思う部分も多々あったが。
中東の嫌米の根は今にはじまったことではないよなと思う、おもしろい記述。
「アメリカの月」では、1969年、月面着陸に成功したアポロのテレビ映像を、
藤原新也は旅の最中でイランで見た時のことを描いている。
月面着陸に大喜びするのかと思いきや、その映像を見たイランの人々は、
「アメリカは悪魔だ」とシュプレヒコールを繰り返したという。
なぜそのようなことになったのか、彼の解説を読んでみると非常におもしろく納得がいく。
歴史のないアメリカの幼児性、子供ゆえの万能感から、
すべてを科学の力によって白日のもとにさらしてしまおうという、
極めて「あっけらかん」としたアメリカの欲望が、
人類が平和に暮らすために作った方便たる宗教の、
「あえて不明な部分をつく」っていた月なるものを暴きたててしまったことで、
イスラムの禁忌を犯したことが「悪魔だ」という言葉になって現れたのだと。
ロスにあるただスターの名前が書かれた「石」が集まっただけのウォークオブフレイムが、
観光名所になってしまうお国柄について、
多民族からなるアメリカという仮想国家を維持するためには、
多民族すべてが文化的背景をぬきにしてまとまれる「象徴」が必要なわけで、
それが「スター(芸能人)」であり「大統領」であると。
ユニバーサルスタジオのからくりが「イミテーション(ニセモノ)」であることを説明されて、
「なんだニセモノだったのか」ではなく「ファンタスティック!」と叫ぶアメリカ人の心象は、
アメリカ国家そのものアメリカ文化そのものがすべて「ニセモノ」で作り上げられていて、
ニセモノをうまくつくることがすごいことであるという文化基軸があるということ。
(「ニセモノ」とはコカコーラなどの合成飲料、ミッキーマウスたドナルドダック、
アメリカ映画「スターウォーズ」や「ET」、
アメリカの国民食たるマクドナルド、空想科学やオカルト、ファンタジー嗜好など、
また地名すら「ニセモノ」である証左が、
「ニュー」イングランドや「ニュー」ヨーク など、
地名のほとんどがヨーロッパ(オリジナル)のイミテーション(ニセモノ)であることなど)
そういったオリジナルでない「ニセモノ」であることによって、
多民族の文化的垣根を越え、1つのスタンダードになりえるという国家背景。
オリジナルを持ち込んでしまったら、この多民族移民国家ではいさかいが生じてしまうわけで、
ニセモノだからこそ、オリジナルでないからこそ、みんなが共通の価値として、
受け入れることができるという倒錯文化。
つまりこれは「革命」とさえいる、壮大なる国家実験ともいえるのだ。
彼が200日、モーターホームでアメリカを横断した旅の中から得た、
さまざまなアメリカの「奇習」に対する解説は、
いかにアメリカが「特殊」であり「クレイジー」であり、
また未来へのモデルとなる可能性も秘めていることが示唆されている。
上記に書いたようなことは本書に書かれている一例の抜粋に過ぎず、
ぜひ本を読んでもらえれば、アメリカの奇習の謎がいろいろ解けると思う。
今、世界をおかしくしているアメリカ人とは何物なのかを理解する、
大きなヒントとなり得るはず。
ぜひ読んでほしいおすすめの本です。
・黄泉の犬
麻原彰晃が水俣病患者?!
もしこれが事実なら大変なことである。
もちろん、そうだからといって彼の犯した罪が軽くなるわけでは微塵もない。
しかし、二度と日本社会が彼のような「モンスター」を生まないために、
どのような社会であるべきかを考える際、
彼が水俣病患者だとしたら、大変なことである。
2006/10/27に発売された藤原新也最新作「黄泉の犬」(文藝春秋)。
その第一章をぜひ読んでいただきたい。
麻原が視野狭窄だったことが、一連の事件を引き起こすことになった、
大きな要因ではないかと目をつけた藤原氏だが、
彼の生まれ育った熊本県・八代を訪れ、
水俣との近さからもしやとさらに調べを進めていき、
麻原家の長兄に接触することに成功。
麻原彰晃を水俣病患者に申請したが認定されたかったという証言を得て、
それらを裏付けるような調べをしたことなどが、
詳細に描かれている。
藤原氏はこの仮説を1995年に「週刊プレイボーイ」に連載していたらしいが、
水俣病を持ち出すことは方々から批判を受けていたらしい。
ややもすると水俣病患者のせいで麻原のような怪物を生んだと、
水俣病患者への「逆差別」になりかねないからだ。
そのせいもあってほとんどのマスコミはこのことについて取り上げなかったという。
地下鉄サリン事件を頂点としたさまざまな教団の事件。
これまで安全といわれていた日本社会を揺るがす、
戦後史上、最大の事件といっても過言ではない。
しかも、それを支持し教団に入っていたのが、
多くの高学歴・エリートであったことも忘れてはならない事実。
今後、日本社会がどうあるべきかを考えるにあたり、
この問題の全容を明らかにし、その因果関係を可能な限り研究することは、
必要なことではないだろうか。
ところが、オウムと水俣という二重のタブーに阻まれ、
単に極刑を与えればそれでいいという悪者論に終始し、
いつのまにか戦後最大の事件はいわば簡単に葬り去られるように思える。
なぜ今、藤原新也はそんなことをと思うかもしれないが、
あとがきを読むとそのからくりがよくわかる。
麻原家の長兄の接触に成功したが、長兄から自分の存命中に話をするなと厳命されていたらしい。
さまざまな配慮からそれを守り、亡くなって時が過ぎた今、
やっと藤原氏は長兄との接触の経緯や証言を第一章に掲載し、
あらためて麻原彰晃や宗教について考える著作が出たというわけだ。
詳しい話はぜひ著作の第一章を読んでほしい。
最近、藤原新也の著作は「軽薄」なエッセイが多かったので、
「今回は大丈夫かな」とかなり心配して読み始めたのだが、
このあまりの「大スクープ」に私は時を忘れて一気に読み進めていった。
もしこれが本当なら、今後、あのようなおぞましい悲劇を生まないためにも、
日本社会のあり方を考えなければならないだろう。
他の章も一応それに関連した話だが、一歩距離を置いた評論なので、
第一章ほどの衝撃はない。
ただ第二章で、ニンゲンが犬に食われる写真を撮影した時のエピソードや、
若者との対面を通して語る時代考は実に鋭くおもしろい。
第三章はやや抽象的でわかりにくいというか難しすぎる。
第四章は、これもなかなかおもしろいが、ちょっと昔の話かなという感じがしないでもない。
第五章は、藤原新也がなぜ旅に出たのかという原点にもあたる話が詳しく書かれているので、
藤原新也ファンにとってはうれしい話だとは思う。
ということでこの本が全編、第一章のような「大スクープ」をもとにした、
現代日本社会のドキュメンタリーというわけではないのだが、
久々に復活した藤原節が聞け、私はある種、ほっとした。
前作「渋谷」で藤原新也は終わってしまったのではないかと危惧していたからだ。
それにしても日本社会というのは自由に見えて、
まだまだタブー視されていることが多いのかもしれない。
先日、国境なき記者団が世界168カ国の「報道の自由度ランキング」を発表したが、
なんと日本は昨年より14ランク下がり、51位だったという。
「ナショナリズムの隆盛が目立つ」との理由らしい。
もちろんどんな社会にも国にもタブーはある。
しかしタブーがタブーのまま報道によって照らされないことで、
グレーな金利が堂々とこの数十年間罷り通っていたり、
たばこやサラ金の批判ができなかったり、
耐震偽装を告発したイーホームズをマスコミが無視するという、
とんでもない事態が発生してしまい、国民のための国家ではなく、
為政者のための国家、権力者のための国家になってしまいかねない。
だからこそ国家転覆を図ったテロリスト教団が生まれたともいえなくはないわけで、
この状況は、実に戦前の日本の1920〜1930年代にそっくりだ。
そういう文脈の中で、「愛国心」「防衛省」「核保有は憲法に抵触しない」という、
日本の今の総理大臣の発言を聞いていると、
否が応でも警戒をしてしまうのだが、
果たしてそれは私の杞憂なのだろうか。
「黄泉の犬」藤原新也著。おすすめです。
・丸亀日記
1987年から朝日新聞に毎週掲載されたコラム。
身辺雑事から社会の構造・精神を見透かしたような文章は、
実に鋭く、今、読んでもはっとさせられるものを含んでいる。
しかし著者は、その社会に対する痛烈な批判を、
かつて「東京漂流」でやった時のように直接的にはしていない。
自分が町を歩く「丸亀」という設定によって、批判的文章が軽妙な語り口にすりかえられている。
しかし語り口が変わろうとも著者が一貫して主張することには変わらない。
それは僕なりにいうなら「アンドロメダ」である。
つまりは「身体の危機」だ。
銀河鉄道999で、星野哲郎が、機械の体を求めてアンドロメダめざして旅するように、
現代社会は、人間という動物的制約を超えて、機械化帝国を作り上げようとしている。
機械に囲まれた社会で「身体」が崩壊すれば、やがてそれは精神を蝕ばんでいく。
人間性の危機、機械化への危機が日々進行しつつあるのだ。
1年あまり警鐘を鳴らし続けた著者の声は届いたのか?
社会はいまだ悪化の一途を辿っている。
つぶやきでこんなことが書ければなと、見本にしたい本だ。
・ロッキークルーズ
あっさり読み終えてしまう短編作品。
昔の旅行記や東京漂流のような圧倒感はなく、
「ディングルの入江」以降の藤原作品の特徴、フィクションとノンフィクションを織り交ぜたような作品。
舞台は世界だが、テーマは旅ではない。
小説的な話を中心として、ほんの最後の数行に、藤原的社会論がかいまみえるだけど、
あとは話のところどころに暗喩されたように藤原の意図が込められている。
膨大な旅の経験と、それに基づいた独特の社会観。
それを短編小説という形で言いたいことを暗喩させている。
「しかし人類は最後まで逃げつづけなければならない。一体どこの誰が追っかけてくるんだ」
「自分さ。自分が自分を追っかけてくる。際限もなく。もうがけっぷちまで追い詰められている」
人間が人間を滅ぼしていく。
「滅亡への道」を突っ走る現代社会を暗喩している、非常に象徴的な言葉。
・鉄輪
かつて藤原新也が住んだ九州の鉄輪(かんなわ)温泉地を舞台に、
写真とそれに対応した文章で表した自伝的作品。
膨大な藤原新也作品の中でも、このような自叙伝的作品ははじめてではないか。
その点では非常に興味深いが、全く藤原新也を知らない人がはじめに読む作品ではない。
しかしこの写真の迫力というかリアリティ感はすごい。
まるで自分がこの温泉の町をさまよい歩いているかのような錯覚にとらわれる。
ただ体裁が気になる。
どうせだったら3000円ぐらいにして、
南島街道や日本景伊勢のような完全な写真集にして、
写真とそれに対応する文章が見開きで見れる方がもっと雰囲気がでたのではないか。
文章しかない中編小説ロッキークルーズと同じA5変形版で1600円というのは、
新潮社の策略で、価格を下げてできるだけ多くの人に買ってもらおうとする意図なのかもしれないが、
僕は逆効果であったような気がする。
自伝的内容から考えても、この本を買う人は、藤原作品を何度も読んでいる人なのだから。
・南島街道
沖縄の写真集に、そこで読み取った匂いみたいなものを文章化したエッセイがついている。
海浜での男と女の一瞬の出来事、夏の島の海岸物語が、「熱」にうなされた南の島の狂気を描く。
青空と海、生い茂る木々、そこに暮らすのどかな街の風景。
海辺の野球場、廃船、秘密の楽園的光景、
昔ながらの商店街、タイムスリップしたかのような古き良き時代、アジア的雰囲気。
そんな島の雰囲気を写真から強烈に伝わってくる。
いつか沖縄の島めぐりをしたい・・・。
いつかさんさんと照り輝く太陽の下での、熱情に浮かされた「狂気」を感じたい。
・少年の港
アジアの玄関口的雰囲気のある港町、門司を撮影した写真集。
モノクローム写真群が、子供時代を思いださせるような、
終戦直後の日本を思い起こさせるような、そんな雰囲気が伝わってくる。
日本の中でも特異な町を、タイムスリップして浮かび上がらせた、どこかせつない写真集。
・空から恥が降る
大好きな作家の最新作は、ホームページで更新したエッセイの寄せ集めという、
ちょっと物悲しくなるような内容だった。
というのも、ネットで一度読んでいるだけに、大きな感動はあまりない。
また、ネット用に書かれた文章であって、極めて軽妙トークである。
徹底的に調べ上げられ、何度も構成を練り直し、書き上げられたスタンスとは違う。
それがネットのいいところなのだが、
それをそのまま時系列的に並べて印刷物にするというのは、どうもクエスチョンマークがついてしまう。
僕も「つぶやきかさこ」なる同スタンスの軽妙トークを展開しているわけだが、
もしネットに書かれたものを出版するのであれば、多分時系列ではなく、テーマ別にするだろうな。
そこにこそ出版物という物理的存在のある本として「編集」のしがいがあるのだと思う。
とはいっても大好きな作家だからつまらないわけではない。
でもどうせなら、ネットはネットならではのものとして、それをもとに大幅加筆したものとか、
もしくは印刷媒体用としてまったく別の長編を書くとか、そういったことを僕は期待したい。
よく雑誌の連載を寄せ集めてエッセイ集になるものも多いが、
あれもうまいこと編集しないと、雑文の寄せ集めになって、どうにもこうにも魅力ある本にはならない。
ネットの場合はそれがさらに加速化するということだ。
この本でおもしろかったのは、
(1)表紙などに書かれている絵(2)写真
(3)ネットではなく、雑誌「SWITCH」に掲載された、
アメリカのアフガン空爆で、アフガンに取材に行こうとしたら、
交通事故にあって行けなくなったという話である。
というように、ネットでないものがおもしろいという皮肉な現象が浮き彫りになった。
「空から恥が降る」とは、アメリカのアフガン空爆を差している。
どうせだったらそのテーマのみにしぼった、
トーク(ネットのエッセイ)や新聞・雑誌掲載のものと、
かつて旅したアフガンの写真を組み合わせた方がよかったのではないかと、
思わなくもないが、まあアフガンに交通事故で行けなくなってしまった今、
その企画そのものがなくなってしまったのだろう。
今回のネットを単行本化という試みは、毎日ネットで更新する同業のものとして、
非常に興味深い出来事だった。
藤原新也さんには、文章でも絵本でも写真集でもいいから、かつての印度動物記のような、
軽妙でありながら実に奥深い物語を世に送りだして欲しいと、ファンとして心から願う。