かさこ講演録 かさこワールド

「サラ金からカメライターに転身した私の方法」〜2008.11.18 東京スクールオブビジネス・マスコミ・広報学科にて 
人生初となる、かさこ講演が行われました!
専門学校東京スクールオブビジネスの、
マスコミ・広報学科の生徒約30名の前で、約1時間の講演。

内容は、学生時代、やりたいことが何もなく、
サラ金に入社してから、
どのようにトラベルライターに転身し、
どのように著書8冊を出すになるまでに至ったのか、
私の半生を語ったものです。
下記、講演の台本を掲載いたします。

<序>
みなさん、こんにちは。
編集、ライター、カメラマンの仕事をしております、「かさこ」と申します。
現在、33才ですが、
編集プロダクションで正社員として働いているかたわら、
個人でもライター・カメラマン活動を行っておりまして、
文章の本が4冊、写真集4冊、
計8冊の著書を出版しています。

今、会社でやっている編集の仕事も、
個人でやっているライター、カメラマンの仕事も、
どちらも楽しくやっていてとても幸せです。

今でこそ、編集業界で楽しく働き、
個人としても本を出すこともできましたが、
今から約10年前、
みなさんとほぼ同じぐらいの20才ぐらいの時は、
やりたいことなんかまったくなくて、
今の自分の姿をまったく想像できませんでした。

そして何を血迷ったのか、
やりたいことがなくて進路に困ってしまい、
大学卒業後はサラ金のアイフルに就職しました。

やりたいこともなくて適当に就職してしまうような、
どこにでもいる、普通の人間が、
なぜこんな風に本を出せるようになったのか。
なぜ今、希望の編集業界で楽しく働くことができているのか、
私のこれまでの約10年の足どりをお話したいと思います。

今、進路に悩んでいたり、
就職は決まったもののこの先に不安があったり、
将来の夢は実現できるのか、
疑問に思っていたりする人も多いと思うので、
私の話がみなさんの参考になればと思います。

1:20〜22才:やりたいことなく、サラ金に就職
私が大学3年生、ちょうど20才過ぎぐらいの頃のこと。
そろそろ就職を考えなくてはいけないと思ってみたものの、
本当に困ってしまったんです。
だって、やりたいことがない。

そもそもサラリーマンになって、
やりたいことなんてできるわけないし、
サラリーマンになるメリットって、
仕事で自己実現するとかじゃなく、
安定した給料をもらえて、
そこそこ休みがもらえることなんじゃないかって。
そんな風な悲観的というか現実的な見方をしていました。

だからほんと、どこでも良かった。
ただやりたくないこととはいっぱいあるので、
ノルマが厳しい会社とかはのぞき、
嫌な業界や企業は消去法で消していって、
残った業界の企業に手当たり次第、
就職活動することにしました。

ただ私が就職活動していた頃は、
今の時期とすごく似ていて、
就職氷河期のはじまりだったんですね。
銀行がおかしなことをして、不景気になり、
新卒採用を絞るみたいな。
だから、一応、それなりに、
自己分析とか志望動機は考えなきゃいけないと思って、
やりたい仕事って何だろう、
自分の好きなことって何だろうって考えました。

まず浮かんだのが旅行。
自分の好きなことは海外旅行だったんで、
旅行関係はどうだろうかと。
でも旅行を趣味にするのと仕事にするのは大違いだろうし、
人の旅行の世話なんかしても楽しくないと思いました。
それに旅行業界は給料安いし、
土日とかも休めそうにないので、
就職先として旅行業界はやめました。

次に浮かんだのがマスコミ。
漠然と新聞記者とか出版社の編集者とかいいなと。
でもそれもすぐにあきらめました。
就職氷河期で採用人数が少ないから、
人気の高いマスコミ業界なんか受かるわけないとか、
出版社にはコネがなければ、
就職できないんじゃないかとか。

それにマスコミは、土日もなく、
徹夜れんちゃんで働かなきゃいけないみたいな、
そんなイメージがあって、
いまどき、そんな前時代的な、
自分の時間もなく家庭を犠牲にしてまで、
会社人間にはなりたくないと。

そうやって自分の興味のあることに、
言い訳つけて、どんどん蓋をして、
自分の道を閉ざしていったんですね。

そんな私を見かねて、うちの父親はこう言いました。
「公務員になれ」と。
私には専門知識もなければ特殊技能もない。
ただ今までちょっと勉強ができるぐらいしか能がなかった。

公務員は自分では向いているなと思いました。
安定した地位と給料があって、休みもそこそことれる。
でも、受験勉強してやっと大学に合格し、
今さらまた試験勉強なんかしたくない。
せっかくの楽しい大学生活を、
別になりたくもない公務員のために、
試験勉強で潰されてしまうのはもったいないなと思い、
公務員もやめました。

それで面接を受けたのは40社ぐらい。
通信会社、クレジットカード会社、サラ金会社、システム会社とか。
今のようにネット系のITベンチャーみたいなものは、
まだなかったんで、そういう選択肢もなかった。

消去法で選んだ業界の中で唯一、行きたいなと思ったのは鉄道会社。
そういえば子供の頃、鉄道好きだったなと思って。
鉄道は旅行に関連が深いし。
なかでもJR東日本が結構いいところまで進んで、
ここだったらサラリーマンだとしても、
旅行が好きな私にはきっとやりがいがあるし、
大企業で安定もあるし給料もいいし、
いいんじゃないかと思ったけど、ダメだった。

旅行と鉄道の融合なんて、
とってつけたような志望動機を言ったところ、
面接官から、「たとえばJR東日本内の場所でどこが好きですか?」
と聞かれたんです。

国内でいいなと真っ先に浮かんだのは、北海道、沖縄、京都。
でもどれもJR東日本の地域外だからマズイよなと思った。
海外旅行ばかりしていた私は、
国内で行きたい旅行地がまったく思い浮かばず、
何も答えられないのはマズイと思い、あわてて、
「国内ではないですけど・・・、
昨年行ったイギリスのエディンバラというところがすごいよくて・・・」
なんて答えたもんだから、面接官は変な顔をして、
その後は、連絡がありませんでした。

それできっと落とされたんだろうなと。
国内旅行地に興味がないこと、それほど研究してないことが、
あっさりバレちゃったんです。

クレジットカード会社も旅行とはわりと密接な関係はあったけど、
どうしてもカード会社に勤めたいわけじゃないから、
そこそこの段階まで行ってすべて落とされた。
そして私が受かったのはサラ金ばかり。
私は中央大学の法学部なんですけど、
中大の法科という学歴が、
就職氷河期には何の役にも立たないことを、
この時、思い知らされました。
サラ金に就職が決まった時、
私は人生の敗北みたいに思いました。

たいした志望動機もないのに、サラ金には受かったのは、
就職氷河期にもかかわらず、300人も新卒採用していたから。
当時、サラ金は、銀行が貸し渋りする中、
融資にはすごく積極的で、
無人機が登場した頃で、すごく羽振りがよく、
ユニークなCMで社会のイメージもよくなり、
東証1部上場を控えた、
不況の中の数少ない成長業界だったんですね。

だからサラ金になりたい志望動機なんか適当でも、
内定できたんでしょう。
こうして私はサラ金に入社することになりました。

2:22〜24才:サラ金職場は最高!でも会社を辞めて旅に出ることに
サラ金って社会的評価はよくないし、
お客さんにとっては高金利で金を貸す、
必要悪みたいな存在だけど、
働く立場になってみると結構いい会社だと思った。
土日は休みで、給料は高い。
3000人を超える大企業だけど、
若手もどんどん実力次第で昇進できる。
人生の敗北みたいに思っていたサラ金就職も、
まんざら悪くないなと思い始めていました。

実際、サラ金に入ってから仕事はラクだった。
新人の頃は仕事が覚えられなくって、すごく大変だったけど、
先輩社員がみんなふまじめなせいか、
私だけ新人だから、早く仕事を覚えなきゃと、
一生懸命まじめにやってたら、
店で融資営業のトップになっちゃった。

働いていた2年間、店だけでなく部でもトップの成績。
でもすごい仕事はラクだった。
私は毎日のように定時で帰っていて、
どの正社員よりも勤務時間が少ない。
店で仲良くなった悪い先輩と意気投合してしまい、
勤務中に昼間カラオケに行ったり、
先輩の家でゲームしたりして遊んでた。

9時ぐらいに会社に来て、1時間ぐらい仕事して、
「営業行ってきます」といって、
昼間、家に帰って寝て、
17時ぐらいに会社に帰ってきて、
1時間仕事をして帰るなんてことも、
しょっちゅうしていた。

それでも要領がよかったせいか、営業成績はトップ。
上司の評価も高かったので、
夏休みも冬休みも1週間とらせてもらい、
好きな海外旅行にも行けて、
こんないい職場はないと思っていた。
就職活動で苦労したけど、
サラ金に入って良かったと思って直していました。

でもどこかでマスコミとか旅行のことがひっかかっていて、
1年目のボーナス使って100万円出して、
新風舎という自費出版会社から、
「エジプト旅行記」を出版したんですね。

今から考えると恥ずかしいんですけど、
自分では最高傑作が書けたなんて思って、
この本が売れて作家デビューしちゃったらどうしようかとか、
10万部売れたらいくら印税が入るだろうかとか計算していました。

でも本屋に行っても自分の本は置いてないわけです。
素晴らしい傑作なのに書店になければ売れないじゃないかと思い、
自分で「旅行作家」なんて名刺を勝手につくって、
書店に自費出版した本を持って置いてもらうよう、
直接、書店に営業に行ったりもした。
もちろん置いてもらえませんよ。当たり前ですけど。

まあでも自費とはいえ、自分の本があるという満足感は買えたので、
本は記念としてはいいかなという気持ちになり、
毎日のラクで楽しいサラ金営業マン生活が、
生活の中心となっていきました。

ただ思わぬ転機がやってきた。
会社に入って2年目、24才の頃のこと。
年末年始に休みをとってインドに行こうと思っていた。
ところが12月、金を借りたいお客さんがいっぱいいて、
とにかく忙しくって、風邪ひいて熱がありながらも、
仕事せざるを得なくって、その時ばかりはさぼってもいられなかった。

もちろんそのおかげで、
すごい営業成績を上げることはできたんだけど、
結局、仕事の無理がたたって、高熱続きで、
もうこんな状態じゃインドなんか行けないということで、
旅行をキャンセルした。
年末年始の休暇中もほとんど寝て過ごしていました。

せっかくの休みを病気で寝込んでいると、
いろいろ悪いこと考えちゃうわけです。
仕事のせいで旅行に行けなかったみたいな、
恨みみたいなものがどんどん積もっていくです。

その時、ふと思ったんです。
この仕事をこのまま続けていいんだろうか。
仕事のせいで旅行に行けないなんて本末転倒じゃないか。
自分が今、一番やりたいことって何だろう。
その時に思ったのは、
沢木耕太郎さんの書いた「深夜特急」という、
長期でアジアやヨーロッパを旅するバックパッカー本を、
以前に読んだことを思い出して、
自分が今、一番やりたいことは、
深夜特急のような長期で旅行することなんじゃないかと。

やるんだったら今しかない。
今だったらまだ若いし取り返しがつく。
サラ金業界は楽しいけど、
やっぱり一生続ける仕事じゃない。

そんな風に思ったら急に元気になって、
インドに行けなかった悶々としていた気持ちが晴れて、
この頃から退職計画と旅行計画を立て始めた。
7月のボーナスもらったら退職し、
チベットとかインドとか、
中国のシルクロードの遺跡とか、
自分が行きたいところ全部行こうと。

会社を辞めて旅に出る。
かっこいいように思えるかもしれないし、
今の時代だったらそんなの誰だってできると思うかもしれないけど、
実際に自分がやるとなったらやっぱり大変だった。
親からはお前はバカじゃないかとあきれられるし、
学生時代から6年間つきあっていた彼女に、
その話をした途端、別れると言われるし、
(幸いにしてよりが戻って今の妻なのですが)
もちろん会社からも反対された。

この頃、私は店の売上げの4割を占めていた。
だから上司の店長は説得に必死になった。
そこで店長から思わぬ提案が出た。
旅行に行っている間、長期休暇にして、
旅行が終わったら会社に戻ってきてくれないかと。

この提案にはすごく揺れました。
だって長期で好きなだけ旅行に行った挙句、
その後、この居心地のよい職場が保証されているなんて、
どんなにか素晴らしい提案だろうと。
でもそれをやったら一生、この会社に仕えなきゃならなくなるし、
この頃から旅行を機会に、サラ金業界から足を洗い、
自分が本当にやりたかったトラベルライターになろうと思っていた。

幸か不幸か、この店長の提案は人事部で認められなかった。
ちょっと残念だったけど、これでスッキリして、
新しい人生をはじめられるなと思った。

それから4ヵ月、韓国、中国、モンゴル、チベット、
ネパール、インド、ウズベキスタン、トルコを旅行して帰ってきた。
よく「長い旅行をして価値観変わりましたか?」って聞かれるけど、
私の場合、会社を辞めて旅に出ると決めた時点で、
常識の価値観が変わっちゃってるから、
旅に行って価値観が変わってことはあんまりないんです。
ただ旅行はすごい楽しかったです。

3:25才:「3年でフリーになる」と宣言し、編集プロダクションに転職成功
存分に旅行を楽しんで、もう当面、旅行はいいやってぐらいになったし、
あとは一人暮らししていて、
お金も尽きてきたので、転職活動をはじめました。
これを機にライターに転職しようと。

大学時代に編集プロダクションの存在を知らなかったんだけど、
旅先で出会った人が、ライターになりたいんだったら、
編プロに就職するのが一番早いと知り、
編プロを数十社、手当たり次第、受けまくりました。
当時はまだリクナビとかネット転職サイトがなかったから、
履歴書書いてわざわざ郵送しなきゃならなかったんだけど、
ほとんど書類で落とされました。

まあそりゃそうでしょう。
今までサラ金に2年間勤めてた人間を、
なんでわざわざ編プロがとるのか・・・。
運よく書類審査を通って面接で呼ばれるのはエロ雑誌ぐらい。
さすがにそれは勘弁したいと。

あまりに落ちまくるので、もうこの年でかつこの経歴で、
編プロに転職するなんて無理じゃないかとあきらめかけていた。
もう編プロはあきらめて、
どこか別のサラ金大手に転職しようかとも真剣に考えた。
サラ金ならトップセールスという輝かしい成績を、
いくらでも好評価してくれるだろうし。

そんな時、面接に呼ばれた編プロへの就職が決まったんです。
クレジットカードの情報誌とか通販カタログ、
リクルート関連の雑誌などをやっている、
30人ぐらいいる大きな編プロだった。

ただ編集とはいえ仕事の内容は私に興味のないものばかり。
でも一度、編プロにもぐりこんでそのスキルを身に付ければ、
自分が希望する旅行書編集とかに転職できるはずと思い、
面接でこう言ったんです。

「3年でフリーになります」

この会社に転職が決まった後に社員に聞いたですけど、
この発言で私を採用するか賛否両論あったらしい。
3年で辞める人間を雇うのかという否定的な意見が多かったみたい。
ただ面接をした方がこの発言を高く評価してくれて、
「3年でフリーになるぐらい懸命に働くっていう、
意気込みのあるやつの方が会社にとってもいい」
と推してくれたおかげで、採用が決まったそうなんです。

人生ってたった一言で運命が変わることもあるんだなと。
後から思えばヒヤヒヤな出来事です。
もしかしたらフリー宣言したせいで採用されなかったかもしれない。
いや、この宣言がなかったら、
未経験者で印象に残らなかったかもしれない。
こうして25才にしてサラ金から編プロにもぐりこむことができました。

4:25〜27才:突如寝たきりになり退職&トラベルライターへ
未経験でサラ金からこの編プロに入れたことはほんと大きかった。
編集・ライターの基礎知識だけでなく、
パソコンの使い方から教えてくれたし。
ただ仕事はつまらなかった。
私が担当したのはカード会社のDM。
毎月、カードの明細書と一緒に送られてくる、
お店の紹介とかツアーの案内とかのDMです。

編集といっても企画を考えるわけでもなく、
クライアントが入れたい広告をただ載せるだけ。
記事を書くといっても、お店に取材に行くわけでもなく、
パンフレットを渡されて、100字ぐらいの紹介文を書く。
あとは旅行ツアー情報のただひたすら文字入力という単純作業。

しかも私にいろいろ教えてくれた先輩が辞めちゃって、
私がこの仕事を引き継ぐことに。
こんな仕事していても、編集・ライターの技術なんか身につかないし、
やりたい仕事でもないしと、
すごく不満を持ちながら仕事をしてました。

そして2年働いて大きな転機がきた。
カードの仕事だけでは自分のスキルは向上しないと思い、
社内の人から他の仕事をもらってしていたせいで、
すごく忙しくなってしまった。
特に一時期はほんと、ひどくって、
始発で家に帰ってシャワー浴びて1〜2時間寝て、
9時に出社するみたいな毎日を、
1〜2週間ぐらい続けてたんですね。

そしたら、ある日、突然、腰が痛くなんたんです。
それが日に日にひどくなって、
しまいには起き上がれなくなり、
完全寝たきり状態になってしまったんです。
今まで腰痛なんかしたこともない私が。

でも仕事は誰も変わってくれない。
だから自宅で寝たきりになりながら、
パソコンとファックス使って1ヵ月ぐらい仕事をしていた。
さすがにこのままじゃどうしようもないと思って、松葉杖を買ってきた。
杖を買ったら腰痛でも歩けるようになった。
杖をついて会社に行って仕事をしていたら、
なぜかまた普通に歩けるようになったんですね。

でもまた2ヵ月たって歩けなくなった。
もうどうしようもないと思い、切開手術し、入院することにした。
入院は1カ月かかるので、仕事は変わってもらい、
会社を辞めることを決意した。
自分の体がボロボロになってまでやりたい仕事じゃないと。
もうここで学べることはないし、
1年早かったけどフリーになるつもりだったから、
これを機にフリーになろうと。

手術のおかげで椎間板ヘルニアは無事に治った。
さあフリーライターだ、どうしとうかと思っていた時に、
会社にいた人が旅行ガイドブックをやっている編プロを紹介してくれた。
この時、結婚もしていたので、
フリーより社員の方がいいとも思って、
就職できないかといったんだけど、
フリーなら仕事はあるといわれて。

幸運にも、フリーで早速、中国取材の仕事をもらうことができた。
この時は自分ってすげえ!とか思った。
腰痛になって会社辞めたけど、そのおかげで念願のフリーライターに、
しかも旅行を仕事にできるトラベルライターになれたと。

でもその取材が終わってしまうと当面仕事がない。
フリーって待ってるだけじゃ仕事は来ない。
営業して仕事とってこなくちゃいけないんだってことに気づいた。
でもその時あんまりいい仕事がなかった。
フリーペーパーのお店取材記事で1件3000円とか。
交通費出したら手取り2000円にしかならない。
取材で1時間、移動で1時間、原稿で1時間。
時給換算したら700円にも満たない。
これだったらまだバイトした方がマシなんじゃないかと。
フリーライターってまさにフリーターだなと。

妻からはフリーライター(というかフリーター)なんてやめて、
早く就職しろと言われた。
はじめはフリーになるという夢を実現したと思っていた私も、
こりゃまずいなと思い始めた。

そこで旅行誌の編プロに転職しようと思ったんだけど、なかなか募集がない。
そこでマスコミ読本というのを買ってきて、
編プロが100社ぐらい載っているので、
その中から旅行関係をやっているところに電話をかけまくって、
雇ってくれって電話した。

何社か面接に行ったんだけど、2社で露骨にこう言われた。
「あんた結婚してんの?じゃあ無理だよ。
うちの仕事はキツイし、大変だし。
結婚しているあんたなんかに務まらない」って。
やっぱり旅行誌編プロは難しいのかと思っていたけど、
運良く、旅行ガイドブックをやっている編プロが、
私のことを気に入ってくれて社員になることができたんです。

前の編プロより規模も小さく、
社会保険も厚生年金ない。
手取りの給料は下がってしまったけど、
念願のトラベルライターになれた。

入社してすぐラスベガス取材に行くことができ、
その後も、アメリカ、ヨーロッパに取材に何度も行けた。
6人ぐらいしかいないこじんまりした編プロで、
私は、60歳の社長の片腕みたいな立場になった。
給料は高くはなかったけど、すごい楽しかった。
ここでは学研の仕事もしていて、
一般書籍の編集にも携わることができた。
今までやってきた広告系の編プロと違って、
自分で企画を立て、構成を考え、
取材して記事を書くっておもしろい仕事ができた。

5:27才〜現在(33才):著書8冊!カメラマン&ライターとして活躍
25才で編プロに転職してから、
旅行に行った体験記とか写真とかのホームページがあって、
毎日更新してたんですけど、
ちょうどその頃、ホームページで連載していたサラ金話が、
ある出版社の目にとまり、ぜひ出版化したいという話が来たんです。

私は舞い上がりました。
念願の自分の本が出せると。
まだ連載は書きかけだったので、
仕事の合間をぬって書き上げた。

ところが出版社の事情で本が出せなくなってしまったという。
すごいショックだった。
ホームページでも本が出るみたいなことを公言しちゃっていたし。
落ち込んでいたんだけど、20万字も書いた原稿を、
そのまま腐らせるのはもったいないと思い、
あちこちの出版社に打診しました。

でもほとんどが電話で「持ち込みはやってない」とか、
「新規のライターの人は受け付けない」とか、
「本を出していない人の本は出せない」とか。
企画書を見てくれても、
「うちはちょっとそのジャンルでは」と断られまくった。

また落ち込んでしまった。
でもなんとか本にしたい。
そう思って、聞いたこともない出版社も調べていろいろとあたってみた。
すると1社、サラ金関係の本を出している花伝社という小さな出版社が、
これはおもしろいといってくれて、念願の本を出せることになった。
そしてついにはじめての著書「サラ金トップセールスマン」が、
出版されることになったのです。

この時、思いました。
数うちゃあたる。
サラ金の営業で私がトップだったのも、
誰よりも数多くの会社に営業に行ったからだったんですね。
サラ金から編プロに転職できたのも、
あきらめず数をあたったから。

30才になって旅行誌編プロから金融系編プロに転職した。
給料面で厳しかったからと、
ガイドブック取材の旅行はある程度経験できたし、
もういいかなと。

旅行誌編プロから転職したので、
海外に行く機会は減るだろうから、
何か国内でテーマを見つけなきゃと思い、
猫とか工場の写真を撮るようになっていた。

本の次は写真集を出すぞと、
海外子供写真集を売り込みに、
グラフィック社という出版社に電話した。
そこで海外子供写真集を2冊も出していたから。
でも断られてしまった。
「その子供写真集の売れ行きがわからないので、
今、同種の企画を出せる段階にはない」と。
そこで私は「お墓に住むノラ猫撮ってるんですがどうでしょう」といったら、
一度、写真だけは見てくれるという話になった。

しかし猫写真は企画は通らなかった。
海外子供もダメ、猫写真もダメ・・・。
行き詰ってしまったと思いながら、
私は「あの、まだ撮りためしている最中なんですけど、
工場写真とかどうですか」
といってiPodに入れている工場写真を見せたです。
するとこの編集者がぴんときて、
「これはいい!」という話になったんですね。
それで工場写真集を出せるようになったんです。

しかもシリーズで企画が通ったので、
工場だけでなく、団地・路地裏・商店街、
学校、洋館などの写真も担当することになり、
そんなわけでこのグラフィック社との出会いで、
写真集が4冊も出せることになったんです。

今は編集プロダクションに勤めるかたわら、
写真集や本を出したり、
猫雑誌で猫写真の連載したり、
Webサイトで世界遺産の連載や工場写真の連載をやったりして、
マスコミ業界で楽しく働いてます。

以上が、私のこれまでの足どりです。
みなさんはきっと私の10年前より、
スタートラインとしてははるかにいいと思うんです。
やりたいこと、やりたい業界を考えて、
そのためにこうして専門学校に通い、
マスコミの勉強をしているわけですから。

マスコミのようなクリエイティブな業界にいると、
「私には才能がない」といって途中で挫折してしまう人も結構多い。
でも私が出会った言葉ですごく感動したものがあるんです。

才能とは持続する情熱である

この言葉を知って、世の中、これだなと思いました。
才能って持って生まれた能力なんかじゃなく、
どれだけ継続してあきらめずやり続けることができるか。
それが力になるのだと。

寝るのも食べるのも忘れて自分が熱中してしまうような、
楽しいことをずっと続けていけることが、
きっとそれが力になっていくんだろうなと。

私は文章書くのは大好きだし、写真撮るのも大好き。
本になろうがなるまいが、
金になろうがなるまいが、
私はずっとこれからも、
書き続けるだろうし、撮り続けると思うんです。
ホームページで8年間、毎日更新し続けてきたように。

それが少しずつ形になり、仕事になり、お金になってるんです。
若いとすぐに結果を求めがちだけど、
好きなことをやったからといって、
すぐに形になったり、仕事に結びつくかはわからない。
それでも好きなことをやり続ける情熱を持つことができれば、
いつかそれが仕事になったりするかもしれないんです。

今はしかもネットがある。
ネットで誰もが情報発信できる。
私もホームページに8年間、
文章やら写真やらいっぱいコンテンツがあるので、
ネット経由で仕事が入ってくる。
だから編プロで正社員しながらでも、
ホームページ経由で仕事の話が入ってくるので、
個人の活動ができるんだなと。

みなさんもそういう意味で、
非常に環境的にはチャンスに恵まれた時代にいると思います。
自分に言い訳せず、
自分が寝る間も惜しんでやってしまうような、
楽しいことは何かを考えて、
それを何年もやり続ければ、
きっと楽しい人生が送れると思います。

以上で、私の話を終わりにします。

※上記の講演内容は、講演用に作った台本のため、
実際に講演で話した内容を、
完璧に再録したものではありませんが、ご了承ください。