・アメリカ
テロの影響で愕然と旅行客が減ったアメリカ。
他の国への航空券が取れなかったがために、僕は幸か不幸か、
現代社会の悪の権化をなしている「アメリカ」という国に、触れる機会を得た。
アメリカにはわずか半日しかいなかったし、
まして西海岸のロサンゼルスからすぐのサンタモニカにしかいなかったので、
それだけの経験で「アメリカ」という国を語るというリスクを犯していることを、
知って聞いてほしいと思う。
まずこの国について驚いたのは、見る人が多国籍多人種なことである。
中国にいけば中国人がいて、インドに行けばインド人がいる。
ロシアにいけばロシア人がいて、フランスに行けばフランス人がいる。
しかしこのアメリカにはそういう圧倒的多数を占める人種がいない。
見る人見る人、いろんな人種が入り乱れている。
黒人もいれば白人もいるし、一見日本人に見える人もいるし、中東系の人もいる。
「人種のるつぼ」とはこのことだと思った。
それは日本という単一民族国家の常識からすると驚くべきことだ。それを肌を持って実感した。
ここは超実験国家なのだ。
ここは超幻想国家なのだ。
ここに、アメリカに、世界がある。世界が凝縮している。
だからここにはアメリカ語もアメリカ人もアメリカ料理もない。
アメリカ市民権を得た無数の移住者たちによる世界国家なのだと実感した。
飛行機から大地を眺めると、その国の実情がよくわかる。
アメリカは、町はもちろん畑でさえ、きれいに区画割りがなされていた。
町のストリートの名はすべて数字という、無味乾燥というか実に機能的。
広大なアメリカ大陸はどこまでも広がり、歴史と土着性のないこの国の風土は、虚無だ。
誰もが透明人間になれる。外人であることを気にしなくいい。
他の異国で外人がいたら相当目立つけれど、この国にいてもそれがないのだ。
誰が歩いていても不思議ではない。無機質な空間なのだ。
だからこそアメリカドリームが成立するのかもしれない。
こんな虚無空間にいたら、誰だって強烈な自己表現欲に駆り立てられることだろう。
だからこそこぞってアーティストたちはアメリカに在住するのかもしれない。
この国にいると、自分が何かをなさなければ存在感が喪失してしまいそうな危機感に襲われる。
アイディンティティをこれほど希求させられる空間は他にない。
この無機質な空間で誰もが自己の存在証明を必死になってしようとするからこそ、アメリカンドリームがうまれるのだろう。
圧倒的な虚無空間、アメリカの功罪はいかに?
アメリカは壮大なる世界実験国家であることには間違いはなかったが・・・。
・アメリカたびばな「職のカースト」
日本から12時間で、ロサンジェルス空港に到着。
ロスでメキシコ行きの飛行機に乗りかえる。その間、3時間。
僕はロス空港を歩いてまず思ったのは、アメリカには実に雑多な人種がいること。
そしてもう一つ感じたことは、「職のカースト」が存在することである。
よくインドに行った旅行者がインドのカースト制度を批判する。
確固たる職能身分制度だからだろう。
しかし自由と平等を標榜する「民主主義国家」アメリカにも、
れっきとした職のカースト制度が存在することを、降り立って30分程度でわかってしまう。
空港にいる警備員や交通整理員は100%黒人。
空港の受付にいるのは100%白人。
これほど人の色で職業が分断されていると、インドのカースト制度よりはるかにわかりやすい。
アメリカは残念ながら不平等国家だった。
やっぱり未だに黒人と白人という差別があるのだなと感じさせられた。
そんなことはなんとなくニュースなどで伝え聞いて頭ではわかっていたのだろうが、
その国を目の当たりにして、これほどまではと思わなかった。
情報氾濫社会だからこそ、自分で行って見て聞いて、肌で感じたことを大切にしたい。
・アメリカたびばな2
<ルールにみるアメリカと日本の違い>
サンタモニカからロサンゼルスの空港へ行くのに、タクシーを呼んでおいた。
そのタクシーおやじが、朝早いというのに終始フレンドリーだった。
タクシーという密室の中で、見知らぬ人同士が一定の時間、空間を共有することにおいて、
初対面からめちゃくちゃフレンドリーであることが、アメリカでは唯一犯罪防止の手段なのだろうかと思うが、
そんなことはさておき、とにかく親しげにいろいろと話してくれた。
それが他の外国で感じるような「日本人であるから」ではない。
やはりそういう態度が習慣化しているのだろう。
空港に到着すると、まるで親しい友達が送ってくれたがごとく、快活に「バイ!」と手を振った。
そのフレンドリーさは実に心地よかった。
このタクシーおやじが運転中、一度だけ怒りだした出来事があった。
それは前方の車がウインカーを出さずに車線変更したことだった。
それほど危ないと思ったわけではないが、快活なおやじは態度を一変し、この車に執拗に怒りはじめたのだ。
「突然ウインカーも出さずに車線を変更するというのはとんでもないことだ。
もし事故にでもなったらどうするんだ。あんな危険な運転の仕方はない。ああいうドライバーは絶対に許せない」
はじめは僕も「危ないですよね」と相槌を打っていたものの、
延々文句を言い続けるあまりのしつこさに、僕は同意するのも面倒になり、ただぼっと外ばかり見ていたが、
それでも彼はそのドライバーを批判し続けた。
「どんな奴が運転しているか、つらを見てやる」
といってスピードを上げ、彼の車を追いぬこうと必死になった。
「おいおい、そんなムキになって運転する方が危ないんじゃ・・・」
と思いながらも、多分今は何を言っても聞かないだろうなと思い、 ただ事故だけは起こさんでくれよと祈りながら乗っていた。
なかなか追いぬくこともできずにいたが、相手が再び車線を変更し、
違う方向へ走っていった時に、そのドライバーの横顔が見えた。
「じじいだ!」
結構な歳をいった老人が、前しかみずに運転している様子が、僕からもよく見えた。
「じじいがあんな風に運転するのは危険だよ。絶対にあんな運転はいかん」
しばらくじいさんドライバーへの批判が続いていた。
たいしたことではないのに、これほど快活なおやじが腹を立てるっていうのはどういうことなんだろう。
ずっとそれを僕は考え続けていた。
たまたまそんなことに遭遇して、この一例を国民性として拡大解釈するとすれば、
きっと多種多様な人種の住むアメリカ人にとっては、
ルールを守ることっていうのは絶対的な条件なんだろうなと思った。
アメリカは何かと言うとすぐに法である。
あれだけ法がしっかりしているというのは、
同一の価値観や同一の民族性を持たないバラバラの人々の秩序を保つためには、
何事も法によって取り決めがなされないといけないのだと思う。
だからこそ争いが起きた場合にはすぐに裁判になり、迅速に行われる。
その点、日本は島国で他の国との関わりも少なく、
ほとんどが同一民族で誰もが生まれた時から日本語を話す日本人であるわけだから、
細かくルールを決めなくとも、なんとなくそれはいけないとか、なんとなくそれはいいだろうといった、
明文化されないルールっていうのが根付いているから、いちいち契約や法で取り決めなくとも、裁判しなくとも、
互いの思いやりや話し合いでどうにかなってしまうところがあるに違いない。
あんなにも快活なおやじが、そんなに危険でない運転にあれほどまでに激怒した理由って、
やっぱり何でも法律社会のアメリカだからこそなのではないかと僕は思った。
・メキシコたびばな1
<1>
メキシコ人が僕に話しかけてくるはじめの言葉は、十中八九、
「エスパニョール?orイングリッシュ?」であった。
あんたはスペイン語を話せるか?それとも英語しか話せないのか?とまず聞かれるのだ。
ここはスペインではないにもかかわらず、植民地時代の名残で、公用語はスペイン語。
英語はほとんど通じない。
だから僕が「イングリッシュ」と答えると、ほぼそこで会話は終わってしまう。
残念なことだが、まともに英語も話せないのにスペイン語などに手が回るはずもない。
しかしそれでも現地でホテルを探して泊まったり、レストランで食事をしたり、
バスや列車のチケットを買ったりして、旅ができるのだから、そう心配することはない。
しかも不思議なことに、旅をしていくうちに習いもしないのに、スペイン語の意味がわかってくるのだ。
もちろん複雑な会話はわからないが、何を言っているか何となくわかるようになってくる。
例えばお店でミネラルウオーターを買う。
「シンコペソス」と返答がくる。
多分値段のことを言ってるのだろうが、いくらかがさっぱりわからない。
適当にお金を出すか、紙に書いてもらうかする。
そこでやっとミネラルウオーターが5ペソだったことを知る。
これを何回か繰り返しているうちに「シンコ」というのが「5」なのだなと自然に覚えていく。
すると不思議なことに「じゃあクアトロと言われたのは4なのだな」と他の数字も覚えてしまう。
こうなってくると実に旅が楽しくなるのだが、残念なことに、
せっかくその国に慣れ始めた頃には帰らなくてはならないのが、短き旅の欠点だ。
<2>
海外でコーヒーを頼むと、大概どこでもミルクはついてこない。
ミルクが黙って出てくるのは日本ぐらいではないだろうか。
ミルク付コーヒーと言わなければ、ミルクは付いてこないし、 ミルク付の場合には値段が違う場合もある。
このメキシコでもそうだった。
英語が通じるところなら「ミルク」といえば通じるのだが、スペイン語しか通じないお店ではえらい苦労した。
コーヒーを頼んで「ミルク」と何度言っても通じない。
ゼスチャーでコーヒーに液体をたらすまねをしてみても、わからない。
そのうち店員は「レイチェ?」と聞いてきた。
「いや、レイチェじゃなくてミルクだ」 「レイチェじゃないの?」 「いや、ミルクだ」
店員はあきれ顔をして戻っていった。僕も通じなかったのならミルクなしでコーヒーを飲めばいいやとあきらめていた。
するとちゃんとミルク付で店員がコーヒーを持ってくるではないか。
そして彼女はミルクを指差し、「これがレイチェなの。覚えておいてね」と笑みを浮かべた。
スペイン語ではミルクのこと「レイチェ」っていうんだ。
こうやって旅をしていると徐々に言葉を覚えていけるのだ。
<3>
外国語会話は必要に迫られ、しゃべらざるを得ない状況になれば、自然と誰だって覚えていけるもの。
それを「いつかは使うはずだ」とか「外国語ぐらいしゃべれなければ」と、
普段会話をする場面がない日本で、教養のために外国語会話を覚えようするから、なかなか覚えられないのだ。
「日本人は英語を6年間も勉強しているのに、ろくにしゃべれないのはなぜか?」
英語をそれなりに話せるアジア各国の人からこうバカにされるのである。
旅の楽しみは言葉を自然に覚えていけること。
言葉を覚えていくと、その国でだんだんといろんなことができるようになっていく。
大金はたいて駅前留学やらTOEICやらのしょうもない勉強するなら、
楽しくて自然に言葉を覚えられる旅に出たほうがはるかによい。
・機内食
思えば、はじめて海外旅行に行った時には、
妙に「機内食」というものに期待を抱いたものだった。
しかしそれが愚の骨頂であることを思い知らされる。
機内食ははっきりいってまずく、そして少なかった。
それはどこの航空会社でも大して変わりないことがわかりだしてからというもの、
必ず飛行機に乗る前にはめしを食べるようになった。
しかし航空会社もバカではない。
それなりに工夫しているなと思ったのが、今回の「大韓航空」である。
普通、機内食では「フィッシュorミート?」と聞かれるのがごく一般的だが、
なんとこの大韓航空、「フィッシュorコリアンスペシャル?」と聞いてきたのだ。
欧米人はこの非常識な質問に当然のごとく「フィッシュ」と答えざるを得ないわけだが、
韓国人および日本人は喜んで「コリアンスペシャル!」とスッチーに宣言するのだ。
出てきてびっくり!
それはなんとビビンバであった。
かえってこのように一品料理の方が当り外れが少なく、うまかったりする。
変に凝った機内食を出されてもやはりそこには限界があり、あまり望ましい味とは言えない。
前に全日空で出された機内食で、凝った肉料理より、そばが一番うまかったのを覚えている。
アメリカ経由メキシコ行きの機内食でまさかうまいビビンバが食えるとは。しかもわかめスープ付き!
旅はそんなささやかなことから感動が始まる。